震災から14年が経った。
私の中では、もう?という部分と、まだ?という部分と両方ある。
自分の生活を振り返ってみると震災の時に学校まで迎えに行かなければならなかった(正確には、迎えに行けず近所の友人や先生にお世話になった。)子供たち全員が大人になったことが大きな変化だ。
私の中で恐らくこれからも変化しないだろうと思うことは、原発について。
目に見えない放射能汚染が広がり、『それ』からどう、子供たちを守るのか、汚染された土壌や自然環境はどうなるのか。見えないものと戦うのは不安と恐怖でいっぱいだったこと。
この想いは多分これからも変わらず私の中で残り続けると思う。
震災で友人やご家族など大切な人を失った方々には今でも、何と言葉をかければいいのかわからない。私なんぞの想いや体験とは全く別のものだと感じている。
何年と時が過ぎようとも忘れることのできないその痛みは計り知れないものだろう。
その一方で、人は、『忘れる』機能を持っている。つらい経験や感情も時を経れば薄まり、穏やかになって行く。こうした作用は、生命を維持する、生きていくうえで必要なことだ。
しかしながら震災から14年経ち震災の記憶が薄れてきて、私たちは自然の脅威や放射性物質というコントロール不可能なものの存在を軽く見ていないだろうか。
先日ニュースで、『電気がないと不便だし、電気代が高くなるのは困るから原発の稼働もやむを得ない』と考える人が4割とのことだった。
自然災害も放射性物質の無害化も今の人間の知恵や知識・技術では防ぐことはできない。
それなのに、日々の便利な生活の為にコントロール不可能なものを使い続けるのだろうか。
私は例え不便であっても、安心して生きていくことのできる環境を選びたい。